ガリレオ,デカルト,ニュートンに始まる力学はその黎明期において,活力論争と呼ばれる論争が繰り広げられていました。
活力論争とは,『力とは何か?』という力学の根本的な基礎に対する問いでした。
今回は,力学という学問が確立していく過程で学者達が激論を交わした活力論争をについて見ていきます。
力とは何か?
無重力空間でボールを思いっきり投げたとしましょう。手から離れたボールはどうなるでしょうか?
そんなもの前に真っすぐ飛ぶに決まっているだろ,と思ったそこのあなた。
こんな疑問を持った事は無いですか?
「どうして手から離れたボールは何の力も加えてないのに飛びつづけているのだろうか?」と
止まっている物体を動かすときはその物体に触って押して初めて動き始めます。でも一旦動き始めるとその物体は動き続きます。手から離れた後も物体を押す力が働き続けているのでしょうか?
ガリレオ以前のヨーロッパでは,インペトゥスという力が進行方向に働き続けているからボールは真っすぐ飛ぶんだ,と考えらていました。
その後,ガリレオによって慣性の法則が提唱され,この疑問に対しての一応の決着がつきました。
しかしながら,『力とは何か?』という疑問は依然として残り,論争の火種としてくすぶり続けていました。
力の尺度?力の保存則?
17世紀から18世紀にかけて物理学者達は”力”を,質量のようなある種の実体であると考えていました。(この”力”は現代の力とは別物で,「運動物体の力」と呼ばれるものです)
”力”を実体であるとすると,質量の対応関係から,質量保存の法則の”力”版とでも言うべきな,力の保存則?が成り立って,”力”の総量も常に一定に保たれるはずです。また,質量の$\mathrm{g}$ に相当する力の尺度も決めなければなりません。
”力”の「尺度」と「保存」,これをどう決めるか当時の物理学者達は関心を持っていました。
これを『活力』と名付け,活力を”力”の尺度とし,また活力が一定に保たれるとしましょう。
デカルトは活力として$mv$(運動量)を提案し,$mv$ が一定に保たれると主張しました。一方,ライプニッツは活力として$mv^2$(エネルギー)を提案し,$mv^2$ が一定に保たれると主張しました。
デカルトとライプニッツ,どちらの活力が正しいのか? 論争が繰り広げられました。この論争を活力論争と言います。
活力論争の意義
現代では運動量もエネルギーもどちらも保存されることが分かっています。そのため,デカルトとライプニッツの主張はどちらも正しく,活力論争は意味のない論争のように思えます。
では,彼らは活力論争のどこにこだわっていたのでしょうか?
彼らが活力論争をしていた理由は,物体の衝突前後の振る舞いについて議論していたためです。
また,物体の衝突に関心が持たれていた理由は,近接作用での力の振る舞いを理解するためにどうしても必要だったためです。
近接作用説と物体の衝突
力学の世界は,物体と力がどう関わって運動が起きるのか?ということを研究する学問です。
ここで問題になるのは,力が物体にどう働くのか?ということです。すなわち,物体から離れていても力が働くのか?それとも物体同士が触れているときだけ働くのか?ということです。
物体から離れていても力が働く場合,この力を遠隔作用力,物体同士が接触していて初めて伝わる力を近接作用力と言います。
ここで重要なポイントになりますが,力学(物理学)では遠隔作用力は存在せず,力は近接作用力のみだと考えています。これはデカルト以来の思想になります。
魔法や超能力のような力は存在せず,物体同士が接触したときのみ力が伝わるということです。(ホントにそうなのかは分かりませんが…)
ということで,近接作用力の性質を理解するためには,物体同士の衝突を研究することが必要そうです。
力の性質の理解 = 物体の衝突の詳細な理解
活力論争の本当の争点
活力論争の本当の争点は「物体同士が衝突した際にどんな法則に従い,どう”力”が伝達されるのか?」という点にありました。
その下位の論争として,”力”の総和が運動量なのかエネルギーなのかということが争われていたのです。
最も根本的な争点は次の点にありました。
”硬い物体”は実在するか?
ここで言う”硬い物体”とは,衝突の際に全く変形せず,それでいて衝突後の二物体の速度が等しくなる奇妙な物体のことです。(現代で言うところの完全非弾性衝突,反発係数が$e=0$ ということです)
当時は,物体を構成する最小要素(≒原子)が”硬い物体”であると理解されていました。
現実の物体が”硬い物体”の場合,エネルギー保存則は成り立ちませんが,運動量保存則成り立ちます。つまり,デカルトの主張が正しいことになります。
しかし,”硬い物体”同士が衝突したときには速度が一瞬で変化することになり不自然です。また,現実の物体が衝突の際に全く変形しない,などということも不自然です。
ライプニッツはこの点を根拠にデカルトの説を否定していました。
さらに,物体を高い位置から粘度のような柔らかい素材に落とし,できたへこみの深さの関係を調べると,へこみの深さは$mv^2$に比例することが実験により示されていました。
このことから,現実の物体が”硬い物体”ではない場合は,ライプニッツの主張が正しそうです。
このように,活力論争の本当の論点は”硬い物体”は実在するか?という点にあり,その下位の論争として”力”の保存や尺度についての論争があったのでした。
皆さんもお分かりの通り,”硬い物体”は実在しません。しかし,だからと言ってエネルギーが摩擦などによって熱になって散逸してしまい,その系ではエネルギーが保存されない状態も起きます。
ということで,彼らの前提の中では,デカルトもライプニッツの主張も誤りであり,活力論争は決着しませんでした。
力学から力を追放する!?
活力論争がいつまで経っても決着しないことに業を煮やして,ついには力学から力を追放してしまおうと主張する過激派すら現れる事態になってしまいました。
その過激派の一人がモーペルテュイです。
力というものは,物体を動かしたり運動の状態を変化させるときに我々が抱く「ある種の感覚」であり,この感覚が物体の運動状態の変化を伴うために,力という感覚を変化の原因であると錯覚しているのだとモーペルテュイは主張しました。
そして,最小作用の原理に自然は従っていて,この原理こそが自然の根本的な法則であると彼は主張しました。
最小作用の原理とは,自然は「作用の量」が最小となるように物体の運動の経路を決める。というものです。(モーペルテュイは「作用の量」として$mvx$ を提案しています)
モーペルテュイの主張で重要な点は,活力論争で争われていた”力”を力学から追放しようとした点です。また,”硬い物体”の実在を否定しました。
運動物体の力?
さて,皆さんは今までの議論で”力”(運動物体の力)とやらの話に違和感を感じませんでしたか?
当時の学者達は,等速運動している物体にも力が働いていると考えていました。そして,この”力”を「運動物体の力」と名付け,運動物体の力の性質について議論を交わしていたのが活力論争なのです。
そうです。彼らはそもそも存在しないものの性質について議論していたのです。活力論争はその意味では無意味な議論だったのです。
ではなぜ,彼らが「運動物体の力」の存在を信じていたのかというと,インペトゥスと呼ばれる概念を引きずっていたためです。
インペトゥスとは,等速運動している物体に働き,等速運動を維持させているとされた力のことです。古くは,アリストテレスが提唱し2000年以上に渡り,人々の中で常識として扱われていました。
もちろん,現代では慣性の法則からインペトゥスの存在は否定されています。
しかし,活力論争が行われていた当時は,力学が確立されていく過渡期であり,インペトゥス(=運動物体の力)の存在が仮定されていたことは無理からぬことだったのでしょう。
いよいよ真打登場です。
活力論争に終止符を打ち,力の概念を確立させた巨人の足跡を見ていきましょう。
力の正体とは? ~オイラーの研究~
活力論争の中で,モーペルテュイやダランベールといった面々は,運動物体の力という概念そのものに対して批判を加えるようになりました。
そして,運動している物体だけでなく,静止している物体にも同じ力が働いていることにも気づいていました。
当時は,物体の運動を研究する分野を動力学,静止物体の釣り合いを研究する分野を静力学と呼び,区別していました。
つまり,運動している物体に働いている力と,静止している物体に働く力を区別していたのです。
この状態に一石を投じたのが,モーペルテュイやダランベールらでした。彼らは動力学だろうと静力学だろうと同じ力が働いており,この力に区別はないと指摘するようになりました。
このような状況の中で,オイラーは力学の研究を行っていました。
1746年,オイラーは『衝撃力について,およびその真の尺度について』と題する論文を発表し,活力論争に対する自身の見解を公表しました。
オイラーは,”運動物体の力”という概念を明確に否定し,衝突は一瞬で完了せず連続的に進展するものだと指摘し,”硬い物体”の存在も否定しました。
さらに,力について重要な結論に到達します。
力はそれ単独で存在するものではなく,物体同士が接触したときに生じるものであり,力は実体ではなく,それとは別の作用とも言うべきカテゴリーに分類されるものであることを示したのです。
混乱していた活力論争を整理し,「慣性」と「力」を区別するべきであり,慣性は物体の等速運動を維持する内的な要因なのに対して,力は運動状態を変化させる外的な要因であることを主張しました。
現代の認識では当たり前のことですが,オイラーによってようやく慣性と力が明確に区別され,活力論争に終止符が打たれました。
話はもう少し続きます。もう少しだけお付き合いください。
それはどんな話なのかと言うと,力の起源に関するものです。
力の起源を求めて
物体が衝突した際に力が生じることをオイラーは論じました。
オイラーはさらに進んで,物体のどんな性質が力を生み出すのか,すなわち力の起源に関する考察を行いました。
オイラーは,衝突した際に力が生じる原因を物体の不可入性と慣性にあるとしました。
物体の不可入性とは,同じ場所に二つ以上の物体が同時に存在することができないという意味です。
物体の不可入性 と慣性から力がどのように生まれるのか? オイラーの考えを追っていきましょう。
まず物体同士が接触します。物体は慣性に従ってそのままの運動を続けようとします。しかし,進みたい場所は既に違う物体によって占拠されています。 不可入性から,その場所に相手と同時に存在することはできません。
そこで,その場所から相手を排除しようと働きかけます。もちろん,相手も侵入を排除しようと働きかけます。この働きかけこそが力であり, 物体の不可入性が力の起源となるのです。
また, 不可入性により生まれる力は,常に物体同士の侵入を防ぐのにちょうど必要とされるだけの大きさの力しか生み出さないとオイラーは論じました。
勘の鋭い方は気づいたかもしれませんが,この結論は最小作用の原理に繋がっていきます。
思わぬところで解析力学の重要な概念に出くわしました。
このことから,解析力学もきちんと力学と関連を持っていることが分かると思います。
力の概念の変遷
最後に力の概念の変遷を見ていきましょう。
~16世紀 | インペトゥスの働きにより等速運動が維持される | 力は実体 |
デカルト | 「運動物体の力」は運動量で表せる | 力は実体 |
ライプニッツ | 「運動物体の力」はエネルギーで表せる | 力は実体 |
モーペルテュイ | 最小作用の原理こそ自然の真理 | 力は錯覚 |
オイラー | 力は単独で存在せず,物体が接触したとき 物体の不可入性と慣性から生じる | 力は作用 |
中世では,力は単独で存在し,ある種の実体であると考えられていました。その後,デカルトやライプニッツは「運動物体の力」の尺度と運動量とエネルギーのどちらが保存されるのかで活力論争を繰り広げました。彼らもまた,運動物体の力は単独で存在すると考えていました。
その後,モーペルテュイは力は存在しないと主張し,最小作用の原理こそが自然の真理であると主張し,力を力学から追放しようと企てました。もちろん,うまくは行きませんでしたが,後に続くオイラーに研究が引き継がれ,解析力学の誕生につながります。
最後に,オイラーによって力は単独では存在せず,物体が衝突した際や接触しているときに働く作用であることが示されます。そして,力が実体であるという考えも否定します。
また,力は物体の不可入性と慣性から生まれることが指摘され,最小作用の原理を支持する姿勢を見せます。
以上が活力論争とそれにまつわる力の概念の変遷になります。
力学はニュートンによって完成されたイメージがありますが,実際には多くの人々によって100年以上の時間をかけて確立していったのです。
余談ですが,運動方程式を今日の方にに定式化したのもオイラーだったりします。
活力論争には多くの物理学者が関わっていますが今回は割愛しました。ダランベールも本当は紹介したかったのですが……